文化の面目

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認識論とは何か 第五章


 吾々はすでに、認識という観念を広範な意義に於て理解した。之に準じて、認識の対象である真理(之は実在乃至リアリティーと双関する概念であったが)も亦、広範に理解されねばならなかった。そしてこの真理認識を行なうものが意識であった。つまり認識とは意識の仕事である、という平凡な言葉に、言葉としてはつきているわけだ。処で、こうした意識が何かの仕方によって客観的に歴史的社会的実在として形を取ったとも見られる場合、つまり意識の客観的内容、認識の具体的な形象、之は一般的に、文化と呼ばれている。で吾々は最後に、認識をば文化について検討しなければならぬ。蓋し文化の問題は、認識論の最も実際的な必需課題であるのだから。

 文化はドイツ古典哲学(主に歴史哲学・文化哲学)風に言えば、客観的精神である。ドイツ語の精神(ガイスト)は、この場合には元来が、或る客観的なものを意味する。決して主観的なもののことではない。だがそれにしても文化は、或る主観的なるもの、それを意識とか主観的な精神とか心理とか、又内部的生命とか考えるわけだが、この主観的なものの、客観化され対象化されたものと見做される理由から、之を客観的「精神」と呼ぶわけなのである。この際文化は主観的な何物かの表現であると考えられている。この云い表わし方の習慣は、そのものとして意味を有っている。文化がただの自然と異る所以は、それが人間主観の作為と仕事とを媒介とするからである。自然物が文化内容というレッテルを受け取る場合、このレッテルだけを取って見れば実在ではなくて意味的なものでしかなく、意識や何かと同じ世界秩序のものだろう。従ってそういう文化というレッテルの貼られたものを、意味の客観化されたものという意味で、生命の表現、という風に呼んだことも、勿論それだけとしては間違いではない。

 ただ問題なのは、自然が文化となるのは、勿論自然が文化というレッテル自身に変ることではないのだ。文化は自然そのものが或る人生的な意味を有ったものであり、人生的な意味を持った自然自身なのだ。処がこの自然そのものは、勿論尋常な意味では何等かの主観的観念的なものの所産でも表出でもない。だから文化も亦、之を単に内部的なものの外化とか、主観的なものの客観化とか、観念的なものの実在化とか、そういう意識の表現の類として片づけることは出来ない。建築物は確かに生活の表現である。時代人の略々共通な心的要求に沿い、注文主の観念と建築家の芸術的技術的創造精神との現われだ。だが建築には物質的な基底がある。単に石や木材やコンクリートや鉄筋が必要だというのではない。建築は生産経済上に於ける技術的な客観条件の上で初めて成り立つのである。工芸品は民族精神か何かの表現であるかも知れない。だがそう云っただけでは、夫が陶工や漆工の生産力を消費する生産機構からの所産であるという生々しい現実は、一向理解出来ない。文化は単に或る主観的観念的なものが、偶々客観的な物質的存在をかりて、表現されたものではない。文化の面目は元来が客観的なもので、社会機構から来る所産であった。

 認識が客観化されて文化形象になるのではない。初めから客観的である処の文化形象なるものを形成することが、広義に於ける認識ということだ。文化の客観的なるものも、実は認識の具体的内容ということに他ならない。



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